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【西条昇のストリップ史コレクション】京都・A級伏見の興行ポスター

2019-03-02T20:40:51.jpg手元にある、京都・A級伏見の興行ポスター。
題して「野性の女」。
〈荒々しくたくましい極限のテクニック!〉〈貴方好みの肉体派も出演!〉とのことだ。
戦前は映画館の伏見都館、戦後は伏見都映画劇場だったが、昭和37年にストリップ劇場に業態変更。正式名は伏見ミュージックだが、ポスターや看板などではA級伏見と記され、ファンに親しまれた。

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【西条昇の演芸史コレクション】昭和18年の東京女義太夫若手人気番付

2019-03-02T18:20:53.jpg手元にある、昭和18年の東京女義太夫若手人気番付。
明治期に当時の書生たちの間でアイドル的な人気を博した娘義太夫だが、昭和18年の時点でも、こんなにたくさんの女義太夫の若手が居たんだな。
浅草に義太夫座という劇場を持っていた竹本駒若が東の横綱である。
発行人兼印刷人は、東京市浅草区田原町二町目24の東京義太夫 事務方の中島貞という人だ。

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【西条昇の演芸史コレクション】ニシキ館での竹本小土佐の女義太夫興行のチラシ

2019-03-02T15:08:33.jpg手元にある、ニシキ館での竹本小土佐の女義太夫の興行のチラシ。
昭和初期のものだろうか。
〈女義太夫藝術界唯一の名人〉〈小土佐は真の義太夫として日本一と誇称するは世人の定評〉〈初日語物小土佐の壺坂は特に十八番「天下一品」〉などの惹句が並ぶ。
俳人の高浜虚子が若き日の小土佐に入れあげたことでも知られている。
小土佐は女義太夫のスターとして活躍後も後進の指導に努め、昭和52年の元旦に104歳で亡くなっている。

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【西条昇の浅草芸能史コレクション】花川戸・東橋亭での女義太夫の興行チラシ

2019-03-02T14:25:04.jpg手元にある、浅草・花川戸の東橋亭での竹本春子と竹本春の助を中心とした女義太夫の興行のチラシ。
春子、春の助の他、春清、小春なども〈大坂登り〉とあるように大阪からの来演である。
今で言えば、NMB48の東京公演のようなものか。
東橋亭は女義太夫や落語の寄席興行を行っていた。

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【西条昇の上方喜劇史コレクション】曽我廼家五郎改め和田久一一派「平民劇団」の筋書

2019-03-02T13:11:19.jpg手元にある、大正4年9月の道頓堀・中劇場での曽我廼家五郎改め和田久一一派「平民劇団」公演の筋書。
明治37年に曽我廼家十郎と共に曽我廼家兄弟一座を旗揚げした曽我廼家五郎だが、ナンセンス喜劇志向の十郎に対して涙と笑いの人情喜劇中心の五郎という喜劇観の違いから大正2年に兄弟一座を解散。
渡欧して西洋の喜劇を学んだ五郎は帰国後に本名の和田久一を名乗り、平民劇団を結成する。
ほどなくして、また芸名の曽我廼家五郎に戻り、昭和23年に世を去るまで日本の喜劇をリードし続けた。

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【西条昇の上方喜劇史コレクション】大正6年の夷谷座での曽我廼家十郎一派の興行番付

2019-03-02T07:56:15.jpg手元にある、大正6年の新京極・夷谷座での曽我廼家十郎一派の興行の番付。
涙と笑いの人情喜劇がベースの曽我廼家五郎と大正2年に袂を分かち、自らの一座で俄がベースのナンセンスな喜劇を追究した十郎だが、大正14年に57歳で死去。
以後、日本の喜劇は、五郎流の人情喜劇が主流派となっていく。

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