たけしさんと同時期に浅草フランス座で踊り子修業された中島洋子さんのご冥福をお祈りします [浅草六区]
岬洋子の芸名でビートたけしさんと同時期に浅草フランス座の舞台に立ち、ここ数年は自ら創設したレヴュー・チーム「サヴァビアン・ショー」の演出と衣裳を担当されていた中島洋子さんが3月4日にコロナウイルス感染症のため亡くなられたとのこと。
中島さんには昨年12月29日に浅草の喫茶ブロンデイで、フランス座時代のこと、深見千三郎さんのこと、たけしさんのことなど、たっぷりとお話を聞かせていただいたばかりだっただけに、とてもショックだし、信じられない思いです。
中島さんのお姉さんお二人も、沖みどり、潮みちるの名で踊り子をされていて、たけしさんの著書「浅草キッド」には、浅吹リカ、じゅん、マイの三人姉妹の踊り子として描かれている。
中島さんは物心ついた頃から姉たちの出演する浅草座、カジノ座、フランス座、ロック座、東洋劇場などの楽屋に出入りし、そのうちに買い物やお使いを頼まれたり、劇場がハネてからキャバレーに向かう際のカバン持ちをしたりするように。
高校を辞めてから深見さんに預けられる形でフランス座に入り、当初は楽屋の用事をしながらオープニングで下駄タップをしたり、群舞の場面のみに出ていたとか。その頃にエレベーターボーイをしていたのがたけしさんで、コントで人が足りない時に深見から「洋子、タケを呼んでこい」と言われて呼びに行ったことも。
村田凡二郎という森川信と同期のレヴュー役者で振付師にダンスを師事。青山までタップを習いに行ってフランス座に帰ってきたたけしさんは自分がステップを忘れないために復習がてら、屋上で中島さんにステップを教える日々が続いたという。また、自分が勉強するために中島さんの高校の時の教科書を借りて読んでは「お前、全然勉強してないな。教科書がキレイなまんまだぞ」…。
その後は赤坂のレストランシアターのミカドや有楽町の日劇ミュージックホールにも出演されていた中島さん。
5年前には僕が東洋館で主催した「フランス座を語る会」にご出演いただき、NHKのBSのたけしさんが深見さんについて語る番組に中島さんが出演された時には息子さんのお店で一緒に放送を見たこともあったっけ。
中島さん、いろいろありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
中島さんには昨年12月29日に浅草の喫茶ブロンデイで、フランス座時代のこと、深見千三郎さんのこと、たけしさんのことなど、たっぷりとお話を聞かせていただいたばかりだっただけに、とてもショックだし、信じられない思いです。
中島さんのお姉さんお二人も、沖みどり、潮みちるの名で踊り子をされていて、たけしさんの著書「浅草キッド」には、浅吹リカ、じゅん、マイの三人姉妹の踊り子として描かれている。
中島さんは物心ついた頃から姉たちの出演する浅草座、カジノ座、フランス座、ロック座、東洋劇場などの楽屋に出入りし、そのうちに買い物やお使いを頼まれたり、劇場がハネてからキャバレーに向かう際のカバン持ちをしたりするように。
高校を辞めてから深見さんに預けられる形でフランス座に入り、当初は楽屋の用事をしながらオープニングで下駄タップをしたり、群舞の場面のみに出ていたとか。その頃にエレベーターボーイをしていたのがたけしさんで、コントで人が足りない時に深見から「洋子、タケを呼んでこい」と言われて呼びに行ったことも。
村田凡二郎という森川信と同期のレヴュー役者で振付師にダンスを師事。青山までタップを習いに行ってフランス座に帰ってきたたけしさんは自分がステップを忘れないために復習がてら、屋上で中島さんにステップを教える日々が続いたという。また、自分が勉強するために中島さんの高校の時の教科書を借りて読んでは「お前、全然勉強してないな。教科書がキレイなまんまだぞ」…。
その後は赤坂のレストランシアターのミカドや有楽町の日劇ミュージックホールにも出演されていた中島さん。
5年前には僕が東洋館で主催した「フランス座を語る会」にご出演いただき、NHKのBSのたけしさんが深見さんについて語る番組に中島さんが出演された時には息子さんのお店で一緒に放送を見たこともあったっけ。
中島さん、いろいろありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
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【西条昇の浅草イベント報告】「浅草芸能まちめぐり」無事開催 [浅草六区]
【西条昇の浅草文学研究】川端康成「浅草紅團」、添田唖蝉坊「浅草底流記」、サトウハチロー「浅草」 [浅草六区]
昭和初期の浅草の流行や風俗が手に取るように分かる三冊。
昭和5年発行の川端康成「浅草紅團」、同5年発行の添田唖蝉坊「浅草底流記」、同7年発行のサトウハチロー「浅草」。
昭和4年12月から朝日新聞で連載された川端の「浅草紅團」では、同年に水族館二階の演芸場で旗揚げされたものの客入りの悪かったレヴュー団「カジノ・フォーリー」の舞台の様子が活写され、これを読んだ人々がカジノに押し寄せるという現象が起きている。
「ラッパ節」「ストライキ節」「ノンキ節」などで知られる演歌師の添田唖蝉坊の「浅草底流記」は、カジノや花屋敷、木馬館、六区の劇場、食い物屋、私娼窟、ポン引き、大道芸人、香具師などを描いたルポルタージュであり、冒頭の文章は「浅草紅團」に引用されている。
詩人であるサトウハチローの「浅草」は、カジノに通いつめて作品を提供し、やがてエノケンと「新カジノ・フォーリー」を立ち上げるまでの経緯が「カジノフオリー裸史」の章で述べられる。〈ひねった話しのコンニャクを前へもどさう。ブルリン〉といったハチロー独特の文体も心地好い。
昭和5年発行の川端康成「浅草紅團」、同5年発行の添田唖蝉坊「浅草底流記」、同7年発行のサトウハチロー「浅草」。
昭和4年12月から朝日新聞で連載された川端の「浅草紅團」では、同年に水族館二階の演芸場で旗揚げされたものの客入りの悪かったレヴュー団「カジノ・フォーリー」の舞台の様子が活写され、これを読んだ人々がカジノに押し寄せるという現象が起きている。
「ラッパ節」「ストライキ節」「ノンキ節」などで知られる演歌師の添田唖蝉坊の「浅草底流記」は、カジノや花屋敷、木馬館、六区の劇場、食い物屋、私娼窟、ポン引き、大道芸人、香具師などを描いたルポルタージュであり、冒頭の文章は「浅草紅團」に引用されている。
詩人であるサトウハチローの「浅草」は、カジノに通いつめて作品を提供し、やがてエノケンと「新カジノ・フォーリー」を立ち上げるまでの経緯が「カジノフオリー裸史」の章で述べられる。〈ひねった話しのコンニャクを前へもどさう。ブルリン〉といったハチロー独特の文体も心地好い。