SSブログ

【西条昇の浅草エンタメ日記】浅草のスターたちを描いた壁画のある喫茶店ピーター [エンタメ]

今日の昼は、浅草の喫茶店ピーターで、日劇ミュージックホール歴史・文化研究会の打ち合わせを。
ここのお店は、庶民文化研究家で「黄金バット」後期の作画を担当された故・加太こうじさんが浅草のスターたちを描いた壁画があることで有名でね。
エノケン、シミキン、金語楼、あきれたぼういず、田谷力三、高勢実乗、小月冴子、川路龍子、大江美智子、デン助、永井荷風…etc.
どの人の絵も味があるし、この壁画は今後も保存すべきだな。
永井荷風は、あんまり似てないけども…。
その横に、昭和23年に荷風が常盤座で観て、お気に入りの女優となった桜むつ子さんが描かれている。
これも似てはいないけども…。
桜むつ子さんとは、その晩年に喜劇人協会の集まりで何度かご一緒させていただき、段差ではその手を取ってエスコートさせていただいたことも。
この手に荷風は触れたのかな…と思ったりもしたっけ。
140915_142823.jpg140915_142854.jpg140915_142734.jpg140915_130806.jpg

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能

【西条昇の演芸コレクション】台頭期の柳家金語楼が主任の麻布・十番倶楽部での落語界革新興行のプログラム [エンタメ]

昭和初期の麻布・十番倶楽部での落語界革新興行のプログラム。
仲入前に金語楼レビュー、主任が柳家金語楼、大切余興が柳家金語楼その他大勢にて熱演の「黒ん坊のジャズバンド」と、金さま獅子奮迅の大サービスぶり。
名前が太字の柳家三語楼は金語楼の師匠で大正期に英語を交えた爆笑落語で売った人であり、橘家圓蔵はのちの六代目・三遊亭圓生である。
金語楼が吉本に迎えられるのは、この後のことだろうか。
山下ケッタロー。
140908_081523.jpg

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:お笑い

日生劇場でジャニーズWEST主演「台風n Dreamer」を観て [ジャニーズ]

今日は日生劇場でジャニーズWESTの「台風n Dreamer」を。ジャニーさんの企画・構成・演出。彼らのお笑い力や歌・ダンス・演技などエンターテイナーとしての魅力を引き出した楽しい舞台になっていた。
彼らの主演舞台を見るのは2月の日生「なにわ侍 ハロー東京!!」、5月の新橋演舞場「なにわともあれ、ほんまにありがとう!」に続いて今年3度め。他に大阪・松竹座公演もあるし、集中的に舞台に主演させることでエンターテイナーとして幅を広げさせようというジャニーさんの思いがあってのことだろうな。
140904_174738.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能

【西条昇の演芸コレクション】昭和15年4月の名劇での実演「エンタツ・アチャコの國定忠治」のパンフレット [エンタメ]

昭和15年4月の吉本直営の名劇(名古屋劇場)での実演「エンタツ・アチャコの國定忠治」のパンフレット。
〈しゃべくり漫才の元祖〉である横山エンタツ・花菱アチャコは、「早慶戦」のヒットで吉本を代表する全国的な人気者となるも、昭和9年に舞台でのコンビを解消。エンタツは杉浦エノスケ、アチャコは千歳家今男を相方としたが、映画ではエンタツ・アチャコとしてのコンビを続けた。
この時の公演も、映画同様、二人は喜劇のストーリーの要所要所で漫才的な掛け合いを披露したのだろう。
それぞれの相方である杉浦エノスケと千歳家今男は〈助演〉とクレジットされ、出演している。
ショー的な景には名古屋吉本ショウが出演。
この翌年あたりから、舞台の巡業では、「エンタツ劇団」「アチャコ劇団」としての別行動になっていく。
DCF00582.jpgDCF00580.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:お笑い

【西条昇の演芸コレクション】冗談音楽「スパイク原とザ・コントメン」の宣材プロフィール [エンタメ]

興行請負業者紹介誌「ショー・イン・ジャパン」昭和50(1975)年11・12月号に掲載された冗談音楽「スパイク原とザ・コントメン」の宣材プロフィール。
スパイク原という名前からして冗談音楽の元祖「スパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズ」の線を狙ったものだろう。
たくさん並べたフライパンを叩いて曲を奏でるのもスパイク・ジョーンズばりであった。
当時、各局の演芸番組や日劇の舞台などで、この人たちの音楽ギャグを観て、コミックバンド系が好きな僕はすぐにファンになったが、いつの間にか見かけなくなってしまった。
全員で、うがいをしながら歌を歌ったり、ゴクンと飲んじゃったりというギャグも、この人たちだったかな。ヘルメットをかぶったメンバーたちの頭をドラム・スティックで叩いていくギャグもあったように思う。
数年前、吉田類さんの酒場放浪記を見ていたら、練馬の「相馬娘(そうまっこ)」という店のマスターが、ザ・コントメンの元メンバーだというので驚いたことがある。
以来、吉田類さん効果で、この番組を見た人たちが全国各地からこの店を訪れるとのこと。
僕も行ってみたいな。
140902_155700.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:お笑い

【西条昇の浅草演芸コレクション】ビートたけしの先輩芸人で浅草名物のくじら屋「捕鯨船」の店主・河野通夫氏の芸人現役時の「青春コンビ」の宣材プロフィール写真 [エンタメ]

浅草名物のくじら屋「捕鯨船」の大将の河野通夫氏の芸人現役時の「青春コンビ」の宣材プロフィール写真。
興行請負業者紹介誌「ショー・イン・ジャパン」昭和50(1975)年11・12月号のベスト・プロジェクトの頁に掲載されている写真で、右下の七三分けで派手な蝶ネクタイで左上の相方を指差しているのが若き日の河野さんである。
デン助劇団こと大宮敏光一座の若手俳優として活躍した河野氏は淡九太という相方とコンビを結成し、浅草松竹演芸場やフロア・ショーなどを中心に活動していた。
僕は当時、松竹演芸場で青春コンビを観ているが、舞台から客席の背もたれの部分を〈因幡の白うさぎ〉状態でピョンピョンと跳んで渡り歩いて舞台に戻るギャグに驚いたものだ。
今思えば、客席に空席が多くなければ出来ないギャグだろう。
「のりにのってます テレビに舞台に人気上昇中!」とのキャッチ・コピーの筈が、誤植で「のりにのって…」の最初の「の」の字が消えている。
だからという訳でもないのだろうが、青春コンビはテレビの世界でのりにのって…という訳には行かず、やがて解散。
河野氏は、芸好きで知られた一六酒場の大将の娘さんと結婚し、現在の場所に捕鯨船という店を開いてから、世界の北野の先輩芸人でもある名物店主として浅草を紹介する番組への露出が増え始める。
芸人時代より芸人引退後にテレビへの露出が急増したのは河野さんくらいだろう。
ビートたけしの「浅草キッド」という曲の歌詞には一六酒場の煮込みや酎ハイが登場するが、今の捕鯨船の壁にもたけしのサインが書かれ、今も河野氏は世界の北野から「兄さん」と呼ばれている。
140902_155416.jpg140902_160835.jpg140902_160011.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:お笑い

【西条昇の浅草興行コレクション】昭和初期の浅草・江川大盛館での安来節競演会のチラシ [浅草六区]

昭和初期の浅草・江川大盛館での安来節の興行のチラシ。
安来節はもともと出雲地方の民謡だが、大正12年の関東大震災をきっかけに浅草で安来節を中心とした興行が爆発的な人気を呼んだ。
観客層の中心は震災の復興のために東京に集まった地方出身の人たちだったと言われる。
若い娘たちが着物の裾をはしょって生足を出して踊るセクシーさと、お馴染みのどじょうすくいに代表されるコミカルさが、安来節というエンターテイメントの魅力だったのだろう。
掛け声をかける観客とそれに即興で応える踊り子とのやり取りが醸し出す劇場全体のライブ感を、江戸川乱歩はジャズを引き合いに出して絶賛している。
江川大盛館は明治〜大正と長く江川の玉乗りの小屋として知られたが、昭和初期には安来節が中心になり、昭和10年代は江川劇場と改めて軽演劇の小屋に。戦後は映画館の浅草新劇場として浅草の観客に親しまれ、2年前に閉館。跡地は再開発を待つ状況にある。
浅草の興行史的に見れば、安来節は浅草オペラと浅草レヴューの間の時期をつないだ形になるだろう。
昭和初期の浅草には安来節を見せる劇場が複数あったが、戦後は木馬館だけが長く安来節の興行を続けた。
僕は小学生の低学年の頃に父親に連れられて木馬館に行き、年配客が少し居るだけの閑散とした客席から、年配の踊り手ばかりによる安来節をどこが面白いのだろうと思いながら眺めた記憶がある。
140813_105031.jpg

nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能

【西条昇の浅草ストリップ史コレクション】昭和23年4月の浅草・常盤座での日本初の〈ストリップショウ〉公演のパンフレット [エンタメ]

昭和23年4月の浅草・常盤座での日本初の〈ストリップショウ〉公演のパンフレット。
劇団・新風俗の第二回公演で、芝居と共に演じられたショウ「妖しき真珠」の中に、いくつかストリップショウと銘打たれた景があり、ヘレン瀧や福田はるみが出演している。
ストリップショウ演出とクレジットされているのが戦前にエノケン一座や森川信の新青年座にいた正邦乙彦である。昭和22年の額縁ショウ以来、〈裸ショウ〉〈りべらるショウ〉などと言われていた女性のヌードを取り入れたショーに、この時、正邦がアメリカの〈ストリップ・ティーズ〉(=脱いで焦らす)から取って〈ストリップショウ〉と付けたのだ。以後、日本ではストリップという言葉が定着することとなる。
劇団・新風俗には、正邦の夫人である高清子、永井荷風のお気に入り女優となる桜むつ子、喜劇俳優の佐山俊二、八波むと志らが所属していた。この時のショウでもヘレン瀧のストリップショウの景の直前に「歌ふ新聞」と題して佐山俊二と高清子が時事ネタ・コントを演じている。僕が話を聞いた当時の軽演劇の関係者は高清子について「上手かったねえ」「達者だった」と声を揃えて、そのコント演技を褒め称えていた。
この公演の成功でストリップの専門家となった正邦は、数年後にジプシーローズという大スターを育て世に送り出した。
DCF00903.jpgDCF00906.jpgDCF00904.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能