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【西条昇の浅草喜劇コレクション】昭和40年代の浅草松竹演芸場のポスター [エンタメ]

昭和40年代の浅草松竹演芸場のポスターを入手。
看板は、似顔絵でもお分かりのようにデン助劇団・大宮敏光一座である。
今や浅草の名物男と言えるクジラ屋「捕鯨船」の店主・河野さんがデン助劇団の若手俳優だったのは、この頃の筈だ。
出演者の芸人たちにも懐かしい名前が並んでいる。
声帯模写の佐々木つとむは、若くして亡くなったが大好きな芸人の一人だった。高倉健、鶴田浩二、渥美清、藤山寛美が麻雀をしているというネタを、若きタモリが四カ国親善麻雀の設定のヒントにしたというのは有名な話。
コント「漫画コミックス」は、昭和50年代前半にキックボクシングのコントでテレビでも売れたコミックスの前身であろう。「やじ馬寄席」で観て彼らのファンになり、一時期「うわさのチャンネル」のレギュラーに抜擢された時は応援するような気持ちで観ていたが、いつしかブラウン管から消えてしまった。
漫才「獅子のびる・瀬戸こいる」は、現在の昭和のいる・こいる師匠の前名か。
歌&コント「パンショー」は、東京コミックショーのショパン猪狩の実兄で、初期の日劇ミュージックホールでボードビリアンとして活躍したパン猪狩のユニット。
即興都々逸「都々逸坊扇歌」は作家の色川武大がその芸をレイ・チャールズと比べて絶賛した盲目の芸人だ。
漫才「いづみ太朗・なるみ信」は、泉和助の弟子で後に泉ワ輔を名乗った泉太朗と、トリオ・ザ・パンチやギャグ・メッセンジャーズで活躍した成美信によるコンビ。「タロシン・コンビ」と名乗っていた頃に何度か見たことがある。成美信は無名時代のビートたけしを可愛がったことでもしられ、たけしの著書に「成美信の貧乏ゴルフ」「成美さんは貧乏をこじらせて死んだ」など、そのエピソードが紹介されている。
まげもの喜劇「劇団・風林火山」は、現在も漫才協会に所属して大衆演劇風の舞台で受けている鳴海吾郎・座長による「ザ風林火山」の前身だ。
僕は父親に連れられて解散前のデン助劇団を浅草松竹演芸場に観に行っているが、おそらくこのポスターの公演の3〜4年後くらいのことだったと思う。
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【西条昇の浅草コレクション】11歳の美空ひばりが出演していた昭和22年12月の浅草ロック座のパンフレット [エンタメ]

僕が所有している浅草ロック座のプログラムで最も古いのが、昭和22(1947)年12月の新風ショウによる第9回公演の時のものだ。
新風ショウとは、〈女エノケン〉武智豊子、女優・中原早苗の父親である藤尾純、のちに「アジャパー」でブレイクするバンジュンこと伴淳三郎の三人が中心となり結成されたショー集団で、この時の出し物は新喜劇「銀座裏の鍵穴」とレヴューショー「桃色ホテルは大騒ぎ」。
同年夏に秦豊吉の勧めもあってショー劇場として開場したロック座は、秦が手掛けていた〈額縁ショウ〉で知られる帝都座ショウや「肉体の門」が大当たりした空気座や、この新風ショウなど、新宿・帝都座や丸の内・日劇小劇場といった東宝系の劇場と同じ出し物が交互に回ってきている状態であった。
この時の公演で注目すべきは、当時11歳の美空ひばりが「桃色ホテルは大騒ぎ」でロック座の舞台に立っていたことだろう。
9景は「奥様お手をどうぞ」と題して、ひばり一人の唄の景になっている。
ひばりが横浜国際劇場で川田晴久に才能を見出だされて出世のきっかけを作るのは、新風ショウを離れたこの直後のことだった。
ロック座は翌年の昭和23年2月〜3月にメリー松原とハイライトショウによる〈踊るハダカ〉が登場して話題となり、昭和24年から本格的にストリップ専門劇場としての道を歩み始める。
ロック座と言えば、今月の始めに久しぶりに公演を観たが、KAGEMUがやるような人間の動きとバックのスクリーンに映し出された映像がシンクロする最新のAR技術を採り入れたり、バーレスク・ショーとしての進化が感じられて驚いた。その話はまた次回に。
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【西条昇の演劇コレクション】新派活動連鎖劇の川上貞次郎一派の番付 [エンタメ]

大正年間の新派活動連鎖劇の川上貞次郎一派の番付を入手。
にしても川上貞次郎とは、川上音二郎と川上貞奴を合体させちゃった名前ということか。名乗りも名乗ったり。
新派で、しかも、連鎖劇。
どんな舞台だったのだろう。
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今日の東京新聞朝刊の大喜利特集記事に西条のコメントが掲載されました

今日の東京新聞の朝刊28面の大喜利の特集記事に、私、西条のコメントが掲載されました。
最近、池袋にオープンした、一般の方々が大喜利を楽しむスペースの紹介をメインにした記事で、西条は大喜利の発生とテレビでの浸透についてや、もともと日本人には鎌倉時代の連歌会など即興の問答的に発想や言葉のセンスを披露し合う文化があったといったことをコメントしています。
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