【西条昇の浅草レヴュー史コレクション】昭和6年の浅草 オペラ館の写真と現在の跡地の様子 [浅草六区]
手元にある、昭和6年12月の新築オープン時の浅草 オペラ館の写真と、オペラ館跡の現在の様子。
オペラ館は、六区の五叉路の三角形の土地に活動写真の小屋として明治42年に開場。
昭和初期には一時、浅草劇場と改称していたが、再びオペラ館という劇場名に戻り、〝レヴュウ劇場〟としてエノケン率いる「ピエル・ブリヤント」が常打ち公演を行った。
1年後の昭和7年にピエル・ブリヤントが松竹に引き抜かれると、田谷力三を座長としてレヴュー劇団「ヤパン・モカル」が常打ちに。
田谷に代わってシミキンが座長となっていた昭和13年5月には永井荷風・作の歌劇「葛飾情話」が上演された。
昭和19年3月末の公演を最後に空襲対策として取り壊され、戦後はいくつかの商店に分割し、六区の通り側の正面から裏に抜ける道が作られている。
今、翁そばや中華300円やに行くために旧 オペラ館跡の中央に作られた路地を歩いていると、往年のオペラ館の舞台や荷風が通った楽屋の賑やかさを想像して不思議な気持ちになる。
オペラ館は、六区の五叉路の三角形の土地に活動写真の小屋として明治42年に開場。
昭和初期には一時、浅草劇場と改称していたが、再びオペラ館という劇場名に戻り、〝レヴュウ劇場〟としてエノケン率いる「ピエル・ブリヤント」が常打ち公演を行った。
1年後の昭和7年にピエル・ブリヤントが松竹に引き抜かれると、田谷力三を座長としてレヴュー劇団「ヤパン・モカル」が常打ちに。
田谷に代わってシミキンが座長となっていた昭和13年5月には永井荷風・作の歌劇「葛飾情話」が上演された。
昭和19年3月末の公演を最後に空襲対策として取り壊され、戦後はいくつかの商店に分割し、六区の通り側の正面から裏に抜ける道が作られている。
今、翁そばや中華300円やに行くために旧 オペラ館跡の中央に作られた路地を歩いていると、往年のオペラ館の舞台や荷風が通った楽屋の賑やかさを想像して不思議な気持ちになる。
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