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【西条昇の往年の浅草写真と同じ場所の現在をほぼ同じ角度から撮ってみたシリーズ4】昭和12年の浅草・大勝館や三友館の周辺と現在 [浅草六区]

昭和12年(1937)の浅草・大勝館や三友館の周辺の絵葉書と、平成28年(2016)正月の同じ場所の写真。
大勝館で上映中の映画は、昭和12年2月公開の原節子・主演の日独合作映画「新しき土」である。
大勝館の場所には、明治中頃には「第一共盛館」があり、「青木の玉乗り」を興行していた。
明治41年(1908)に実業家・大瀧勝三郎により、映画常設館「大勝館」となった。館名は大瀧勝三郎から「大」と「勝」の字を取ったものである。
昭和46年(1971)に廃館となり、翌47年に浅草中映ボウルや中映インドアゴルフ場の入った浅草中映会館が建築され、同52年にアポロ、キャピタル、ロマンという3つの映画館が館内に設けられている。
しかし、昭和56年(1981)にボウリング場と映画館が閉鎖され、周囲が鉄塀で囲まれて長らく廃墟ビルとなっていた。
平成13年(2001)に当時の浅草ロック座の会長(現在は名誉会長)の斎藤智恵子氏が同館を借り受け、大衆演劇の劇場として再開場。早乙女太一は、ここで大きく成長している。
6年後の平成19年に休館となり、再び廃墟ビルに。
館内にあった食事処「大勝館」は、同じ店名のまま、米久の裏手あたりの浅草二丁目に移転。斎藤智恵子ママご自身も、よく店にいらっしゃるようで、僕も何度かお目にかかった。
かつての大勝館の建物は取り壊され、平成25年(2013)にドン・キホーテ浅草店の入った商業施設が作られた。
現在の浅草演芸ホールの場所は、明治中頃には「開進館」という勧工場(デパートの元祖か)があり、明治40年(1907)に映画常設館「三友館」が開場している。
昭和26年に、戦前の三友館の支配人で戦後は浅草ロック座を経営する東洋興業の社長であった松倉宇七により、ストリップショーをメインとしたフランス座が開場。
昭和32年に、1~3階が東洋劇場、4~5階が浅草フランス座に改築され、昭和39年に4~5階が落語定席「浅草演芸ホール」に。
昭和46年には演芸ホールが1~3階に移って、4~5階は再びフランス座となり、翌47年から北野武(のちのビートたけし)がエレベーター・ボーイに。その後、深見千三郎門下でコメディアン修業を開始した。
平成11年(1999)にフランス座はその歴史の幕を閉じ、翌年に色物を中心とした「東洋館」が開場した。
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