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【西条昇の浅草文化史】浅草の矢場の歴史と風俗の変遷について [浅草六区]

浅草の花やしきの入口近くを歩いていると、「矢場」と書かれたブースが設けられ、通行人の注目を集める中で、一人の客が的に向かって小さめの弓を構えていた。
矢場と浅草との関係は深い。
明治初年から浅草の奥山に矢場が増え始め、明治30年の時点で浅草公園第五区に矢場が28軒あったという。
今日見かけた矢場で客の応対をしていたのは男性だったが、かつての矢場では「矢場女」「矢取り女」と言われた美人の女性がわざと足を見せつつ矢を拾ったり、身体を密着させて男性客に射的のやり方を教えたりした。
店の裏では性的サービスも受けられたとのこと。
やがて、より安価で同様の行為が行われる「銘酒屋」に、その人気を奪われていく。
銘酒屋と言いつつ、店頭に置かれた酒は、ほとんど飾りであった。
銘酒屋は浅草公園の五区と六区に多く、十二階こと凌雲閣の周辺に軒を並べて私娼窟を形成していたことから「十二階下」と言われた。
十二階下には石川啄木が頻繁に通ったことが「ローマ字日記」に記され、竹久夢二は十二階下の女を描いている。
また、新聞を読める店といったていで同様の行為を行う「新聞縦覧所」も出現した。
大正7~8年に言問通りが開かれることになったことと大正12年の関東大震災をキッカケに、十二階下の銘酒屋の多くは玉の井に移転する。
浅草から程近い吉原では、昭和21年のGHQによる公娼廃止制度を受けて飲食店として風俗営業許可を取った「カフェー」が増え、昭和33年の売春防止法以降は「トルコ風呂」「ソープランド」などの特殊浴場が軒を連ねるようになる。
矢場からソープランドまでの変遷からは、建前と本音を巧みに使い分ける日本人の特徴が見てとれるように思う。
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