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芸人としての島田紳助と今回の芸能界引退を考える [お笑い]

島田紳助の今回の芸能界引退については、記者会見の行われる数十分前に新聞記者のかたから電話があり、引退が発表されるらしいということを知った。
そして記者会見の内容を受けて、今回の騒動についてのコメントを求められ、改めて芸人としての島田紳助について考えてみた。

基本的には、「♪芸のためなら女房も泣かす~」と歌われた桂春団治や吉本の先輩漫才師である横山やすしと同じく、ムチャでヤンチャだからこそ面白いという芸人の系譜に連なる人だと思う。
一方で、紳助は春団治や横山やすしにない強烈なしたたかさも併せ持っていた。
横山やすしのヤンチャさと、その相方で国会議員にもなった西川きよしのしたたかさを合体させた感じとでも言うか、いや、西川きよしよりもある意味では数倍はしたたかかもしれない。
 
まず、そのデビューからして、吉本の同期の明石家さんまの明るい面白さやオール巨人の器用な芸は自分にはないことをいち早く認識すると、では何を武器にしたら売れるのかを徹底的に分析した結果、当時の若者層をターゲットとして、リーゼントにレーシングスーツ姿の紳助・竜介のツッパリ漫才というスタイルを考案し、MANZAIブームの中心的役割を担った。
その後、自分たちに憧れて吉本入りしたダウンタウンには漫才では勝てなくなったとコンビを解散。
ピンになってからは、当時のゴールデンタイムの番組の司会者たちの中にアナウンサー出身者やスポーツ選手出身者や俳優出身者や芸人出身者がそれぞれ何人ずつ居て、世代的なことも含めて、いかにして割って入れるかを分析したという。
過渡期と言うべき時期には、山城新伍、上岡龍太郎、和田アキ子、徳光和夫といった先輩司会者の横のポジションで経験を積み、「サンデープロジェクト」では田原総一郎と共にニュースショー番組の司会も経験した。

一時期、お笑いとしてより様々な番組の司会者というイメージが強くなっていた紳助がテレビのお笑い系司会者の大物として君臨し始めるのは90年代後半、2000年代に入ろうかという頃からだったと思う。
97年スタートの素人恋愛トークバラエティー「キスだけじゃイヤッ!」などで、もともと得意だった喩え突っ込みやイジリ芸が更に冴えてきていた。
ちょうどその頃、僕は紳助の司会で20世紀のお笑いをまとめて振り返る日テレの正月2時間特番の構成を担当したのだが、スタジオに集った大勢の新旧の芸人やタレントを見事に仕切って的確に笑いを取る紳助の司会ぶりを間近で見て、改めて感心させられた。

単に司会者というより、プロデューサー的な資質を活かして、「開運!なんでも鑑定団」で鑑定士ブーム、「行列のできる法律相談所」で弁護士ブーム、「クイズ!ヘキサゴンII」でおバカブーム、大会委員長を務めた「M-1グランプリ」では若手お笑いブームを作ってみせた。
「行列のできる法律相談所」のレギュラー弁護士の中から、大阪府知事や参議院議員に当選する人が出たくらいだから、その影響力は大きかったと言えるだろう。

自らプロデュースした羞恥心、アラジン、Pabo、里田まい with 合田兄妹/家族などのヘキサゴンファミリーや新選組リアンの大半の曲の作詞をカシアス島田名義で担当する一方で、喫茶店、寿司屋、しゃぶしゃぶ屋、バーの経営に関わるなど実業家としての活動も活発になっていた。

プロレスで言うところのヒール(悪役)的な個性を前面に出しつつも、番組中にかつての桂小金治ばりに感動の涙を見せるなど、性善説的な発言も多く見られた。
このあたりは好みの分かれるところで、僕もドライな笑いのほうが好きなのだが、高い視聴率のレギュラー番組を現時点で多く持っていたということは、それだけ多くの一般視聴者に支持されていた証拠だろう。

仕事に対しては常にしたたかに動いていた一方で、時折、そのヤンチャさが表面に出て、傷害事件などの騒動を起こした。
今回の黒い交際に端を発した引退騒動は、紳助のヤンチャさが根底にあって招いた結果なのか、それとも、したたかな行動の延長上にあったものなのか。
その詳細が分かった時点で、改めて書いてみたいと思っている。

紳助の抜けた穴を誰がどう埋めていくのかにも注目していきたいところだ。
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