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AKB48の仕掛け人・秋元康と日本アイドル・ポップスのヒット・クリエーター(作詞家・作曲家)の系譜①~60年代編 [アイドル]

アイドルのクリエーター・仕掛け人(作詞家・作曲家)ということで言えば、ここ数年はAKB48を中心とした秋元康の一人勝ち、一人横綱状態が続いていると言っていいだろう。
それも、秋元氏は80年代にもおニャン子クラブを中心にアイドル界を席巻しており、例えて言うなら、かつて偉大な連勝記録を打ち立てた横綱がしばらく間を置いてから再び自らの記録を更新するほど連勝し始めたようなものではないか。
秋元氏以前にも、日本のアイドル・ポップスの作詞家・作曲家の横綱格の人は時代ごとに存在していた。
ここで、そうした方々の系譜を改めて、大掴みながらも整理してみることで、AKB48の原点、アイドルのヒットの本質といったものに迫ってみたいと思う。

まず、日本にアイドル歌手という概念の出来る前の時代に活躍されたかたの中から、後年のクリエーターに大きな影響を与えた存在として、服部良一の名前を挙げておきたい。
戦前から「蘇州夜曲」「一杯のコーヒーから」「胸の振り子」「山寺の和尚さん」「ラッパと娘」といった名曲を生み出していた服部は、戦後になって「青い山脈」「東京の屋根の下」「銀座カンカン娘」「三味線ブギウギ」などのヒット曲を量産しつつ、ステージ上を激しく歌って踊りまくる《ブギの女王》笠置シヅ子に「東京ブギウギ」「ジャングルブギ」「買物ブギー」「ヘイヘイブギ」「ホームラン・ブギ」「大阪ブギウギ」「たよりにしてまっせ」などの曲を提供した。作曲のみならず、村雨まさを名義で作詞を手掛けることも少なくなかった。
ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長は、服部の仕事をリスペクトしており、少年隊、KinKi Kids、TOKIO、関ジャニ∞、ジャニーズJr. にそれぞれ「東京ブギウギ」「買物ブギー」「たよりにしてまっせ」「三味線ブギウギ」「山寺の和尚さん」「青い山脈」などの服部メロディーを歌い踊らせている。

60年代に入ると、放送作家出身の作詞家・永六輔とジャズ・ミュージシャン出身の作曲家・中村八大の《六八コンビ》がロカビリー出身の水原弘、坂本九、ジェリー藤尾らと組んで「黒い花びら」(59年)、「上を向いて歩こう」(61年)、「遠くへ行きたい」(62年)などを大ヒットさせて時代の寵児となった。
初代ジャニーズのデビュー曲「若い涙」(64年)を手掛けたのも《六八コンビ》である。
また、このカバー・ポップス全盛のこの当時、ダニー飯田とパラダイスキングの「ステキなタイミング」「ビキニスタイルのお嬢さん」、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」、中尾ミエの「可愛いベイビー」、弘田三枝子の「ヴァケーション」「私のベイビー」「すてきな16才」、田代みどりの「パイナップル・プリンセス」、鈴木やすしの「ジェニ・ジェニ」など数多くの曲の訳詞を一手に引き受けていた漣健児がのちのアイドル時代に与えた影響も限りなく大きい。
僕は以前、漣氏の仕事を総括した本に原稿を書いたこともあるのだが、漣氏の訳詞は「ルイジアナ・ママ」の「♪みんながちょっかい出したのに誰にも振り向かぬ あの娘をどうして射止めるか 街中のうわさ」「♪びっくり仰天有頂天 コロリとイカレたよ」「♪恋の手管にかけたなら 誰にも負けない僕だもの アタリキシャリキ」などのフレーズからも分かるように日本的なニュアンスの言葉を心地よいリズムで散りばめることで非常にユニークでポップな味わいを出すことに成功している。もはや訳詞という枠を超えたオリジナルと言うべきで、元祖・桑田佳祐的な趣さえあったのだ。
62年にザ・ピーナッツの「ふりむかないで」をヒットさせ、その後もピーナッツの「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、園まりの「逢いたくて逢いたくて」などを手掛けた作詞の岩谷時子と作曲の宮川泰のコンビも、和製ポップスの開拓者として欠かせない名前である。
岩谷はのちに72年から74年にかけて作曲家の筒美京平と組んで「男の子女の子」「小さな体験」「裸のビーナス」「モナリザの秘密」「花とみつばち」などのデビュー当初の郷ひろみのヒット曲の作詞を連続して手掛け、男性アイドル・ポップスの世界も切り開いてみせた。
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