SSブログ

【西条昇のアイドル論】江戸川大学マスコミ学科の「アイドル論」3回めの授業を [アイドル]

西条昇です。
昨日は江戸川大学マスコミ学科で今年から始まった授業「アイドル論」の3回目を。
まずは、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの三人娘が映画「ジャンケン娘」で、ひばりが黄色、チエミが赤、いづみが青の衣装を着たのが、現在のももクロや関ジャニ∞につながるイメージカラーの衣装の元祖といった先週の復習から…。
それまでの日本にはアイドル的存在は居たものの、実際に「アイドル」という言葉が定着するキッカケになったのは、1963年公開のフランス映画「アイドルを探せ」(原題にもアイドルという言葉が使われている)と、同作品に出演していたシルヴィ・バルタンが歌った主題歌「アイドルを探せ」(曲の原題は別のものだが映画の邦題がそのまま使用された)のヒットであった。
更に、1965年公開のザ・ビートルズの主演映画「ヘルプ!4人はアイドル」のヒットが決定打に。
当時のビートルズのアイドル人気は凄まじいものがあり、十代の少女を中心としたファンたちはステージの間ずっと叫び続け、移動の「追っかけ」をし、宿泊ホテルを取り巻くなどの「出待ち・入待ち」をした。
こうしたビートルズのアイドル的資質を最初に見抜いたのが、マネージャーのブライアン・エプスタインで、初めてリバプールの小さなクラブでの演奏を見た時に、その音楽性と共に彼らの「可愛さ」と「ユーモアセンス」を見出だしたのだ。
それまでのリーゼントに革ジャン、ステージで煙草を吸うといったスタイルを止めさせ、マッシュルームカットにスーツ姿、演奏後に丁寧なお辞儀をさせることで「可愛さ」を強調し、アメリカ進出も成功させた。
また、同性愛者だったと言われるエプスタインは、4人が顔を近づけての写真撮影、一本のマイクに2人が近寄ってのコーラスなど、腐女子用語である「距離感萌え」演出を多用し、十代女性のファン心理に応えた。
ステージで意味不明の言語を叫ぶギャグ(?)で客席から黄色い声援を浴びるなどの「ふざけん坊」ぶりを発揮していたジョン・レノンに代表される彼らのユーモアセンスは、コメディの奇才リチャード・レスター監督による2本の映画「ビートルズがやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!4人はアイドル」で存分に活かされ、各国のアイドル映画に大きな影響を与えた。
この2本でのリンゴ・スターのポーカーフェイスでのトボケ味のあるボケ・キャラと現在の嵐の大野智くんのトボケ味の漂うキャラに同じ匂いを感じるのは僕だけかな?
やがて、1966年でのコンサートツアーを最後にスタジオでの曲作りが活動の中心となったことと、1968年のエプスタインの死などにより、ビートルズはアイドルから脱皮した存在に。
同じイギリス出身のローリングストーンズも当初は十代女性からキャーキャーと声援が飛び交っていたが、意図的にターゲットを絞ったものではなく、ビートルズとの違いはエプスタイン的存在の有無と言えた。
ビートルズの成功に刺激されたアメリカのテレビ・プロデューサーは、ビートルズ的な4人組アイドル・バンドを主人公にしたテレビ・コメディ・シリーズ「ザ・モンキーズ・ショー」を企画し、オーディションに集まった俳優・歌手の中から4人のメンバーを選出。
「ヘルプ!4人はアイドル」の世界観に影響を受けた同シリーズは大ヒットし、メディアミックスとして実際に発売された1966年「恋の終列車」や1967年「デイドリーム」(Daydream Believer)などもヒットすることで、モンキーズは全米のアイドルとなる。
しかし、もともとバンドとしてスタートしたわけではなく、俳優としてモンキーズというキャラを演じることからスタートした彼らは、実像と虚像との間で葛藤し、解散してしまう。
日本でも、ビートルズの影響で、それまでのロカビリーの流れからリバプール・サウンドに対応したグループが多数現れ、1966年~1969年あたりにかけて爆発的なグループ・サウンズ(GS)ブームが巻き起こる。
GSブーム前期のツートップは、「田辺昭知とザ・スパイダース」と「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」であろう。
ボーカルに喜劇俳優・堺駿二を父親に持つ堺正章とダジャレ&愛嬌が武器の井上順を擁したスパイダースは、音楽性と共にユーモアセンスにも優れ、「ヘルプ!4人はアイドル」に影響を受けた映画に多数主演し、「夕陽が泣いている」「あの時君は若かった」「なんとなくなんとなく」などヒット曲を連発。
SMAP中居正広くん香取慎吾くんは、さながら〈平成のマチャアキ&順ちゃん〉か。
グループ解散後も、堺と井上は俳優・司会者・コメディアン、田辺は田辺エージェンシー社長、かまやつひろしは歌手・ミュージシャン、井上堯之と大野克夫は作曲家・ミュージシャンとして、それぞれ活躍した。
ブルー・コメッツは、1967年に「ブルー・シャトウ」が大ヒットしてレコード大賞を獲得し、アメリカの人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」にも出演する活躍ぶり。美空ひばりのGS調の曲「真赤な太陽」のバッキングも担当した。
ほかに、寺尾聰が在籍した「ザ・サベージ」の「いつまでもいつまでも」、「ザ・ワイルドワンズ」の「思い出の渚」、「ヴィレッジ・シンガーズ」の「亜麻色の髪の乙女」、「ザ・ジャガーズ」の「君に会いたい」、「ザ・カーナビーツ」の「好きさ好きさ好きさ」などがヒットした一方で、GSブーム中~後期には、「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」「オックス」がGS御三家と言われるように。
彼らGS御三家の特徴は、GSブーム前期のグループに比べて、より日本独自の少女趣味的でメルヘンチックな王子様的ファンタジー感を前面に打ち出していったところだろう。
タイガースの「花の首飾り」、テンプターズの「エメラルドの伝説」、オックスの「スワンの涙」など、詞も曲も少女たちが夢見るファンタジーの世界に合わせた作り方がされている。
とりわけ、オックスはステージでメンバーが失神する演出により、客席の少女たちも次々に失神したことが話題となったが、デビュー二曲めのメルヘン調ではなくノリノリな曲調の「ダンシング・セブンティーン」は知る人ぞ知る名曲であり、僕の愛唱歌でもある。
1969年にタイガースの加橋かつみ、オックスの赤松愛という人気メンバーがグループの方向性への不満により相次いで脱退した頃から、GSブーム自体が終息の方向へ。
グループ解散後、タイガースのジュリーこと沢田研二は70年代半ばから80年代半ばにかけてヒット曲を連発する大スターとなり、テンプターズのショーケンこと萩原健一はドラマ「太陽にほえろ!」「前略おふくろ様」「傷だらけの天使」などで男性ファンの憧れの存在に。オックスの野口ヒデトは真木ひでとに改名して演歌歌手に転身した。
その頃、ジャニーズ勢はどうしていたかと言えば、1968年にレコードデビューした「フォーリーブス」の「オリビアの調べ」は曲調も歌いかたもメルヘン調GSの世界観に近く、当初は〈楽器を持たないGS〉と言われることもあったが、徐々に歌・踊りにバック転も加えたジャニーズらしいステージを中心に彼ら独自の世界観を作りあげていく。のちにジャニーズ勢からは「男闘呼組」「TOKIO」などバンド形式のグループがデビューしている。
1980年代半ばにGS以来のアイドル・バンドとして人気を得た「チェッカーズ」と「C-C-B」にはGSを意識した曲調や演出が見られ、チェッカーズの主演映画「TAN TANたぬき」はビートルズ主演映画の影響が感じられた。
また、GSブーム終息後の1976年に矢沢永吉、ジョニー大倉らによって結成された「キャロル」は、エプスタインによってイメージチェンジをはかる前のビートルズのファッションや音楽性に影響を受け、リーゼントに革ジャン姿でデビューすると、当時の十代の男性ファンの圧倒的な支持を得て、暴走族のファッションにも影響を与えた。
同じビートルズが源流でありながら、GSは少女たちの擬似恋愛の対象となり、キャロルは少年たちの憧れのファッション・リーダーになるなど、全く対称的な展開を見せていたのが非常に興味深い。
来週は、女性アイドルの成立と展開についてを予定している。

なお、西条は、アイドル研究家として、アイドル関連の原稿や審査員などの仕事も受け付けています。お問い合わせはsaijonoboru@gmail.comまで。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0