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【西条昇の軽演劇史研究】由利徹と佐山俊二のコント「山崎街道」 [軽演劇]

2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg2021-09-30T11:39:41.jpg定九郎役の由利徹と与市兵衛役の佐山俊二によるコント「山崎街道」。
由利が釣り糸のない釣り竿を巧みに操り、佐山が襟首を釣り上げられた態でフラダンス風に踊ってみたり、釣り針が由利の赤フンにひっかかった態で怪しげな手つきでピクピクさせてみたり、二人の持ち味が堪能できた。
それぞれ腰を前後に振りながら軽快に歩いてみせる箇所も好きだったな。
佐山亡き後、与市兵衛役は人見明、石田英二、泉ワ輔らが務めたが、佐山の穴を埋めるのは難しかったと言える。

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【西条昇の軽演劇史研究】東八郎と深見千三郎のコント「犯人違い」 [軽演劇]

2021-09-29T10:13:50.jpg2021-09-29T10:13:50.jpg2021-09-29T10:13:50.jpg2021-09-29T10:13:50.jpg昭和52年に浅草ロック座で収録され、東京12チャンネル(現・テレ東)で「浅草喜劇祭」の1コーナーとして放送された東八郎と深見千三郎(ビートたけしの師匠)によるコント「犯人違い」。
当時中学1年生の僕はこの時の放送をリアルタイムで観て深見の存在を知り、2年後の松竹演芸場での東八郎お笑い生活25周年特別公演を観に行き、生で東と深見の息の合った掛け合いを楽しんだ。

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【西条昇の軽演劇史研究】森繁久彌が在籍した昭和13年の古川ロッパ一座の連名表 [軽演劇]

2021-09-27T10:14:04.jpg2021-09-27T10:14:04.jpg森繁久彌(当時の芸名は藤川一彦)が在籍していた東宝古川緑波一座の昭和13年9月の日比谷・有楽座公演プログラムに掲載された一座の連名表。
上段には座長をはじめ幹部クラスの名が並び、中段左から九人めに森繁つまり藤川一彦の名があり、その上に(出征)と記されている。
中段左から三人めの加川久はのちの山茶花究で、翌14年3月に第二次あきれたぼういずに加入。
ロッパが一座の若手に酔っぱらいの演技を競わせたところ、若き日の森繁と山茶花究が抜群に上手かったそうだ。

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【西条昇の軽演劇史研究】昭和28年のストリップ劇場のコメディアンと女優を紹介した内外タイムス記事 [軽演劇]

2021-09-26T18:00:14.jpg2021-09-26T18:00:14.jpg2021-09-26T18:00:14.jpg都内の各ストリップ劇場のトップ級のコメディアンと女優・踊り子との組み合わせを紹介した昭和28年11月の内外タイムスの短期連載〈笑いのカップル〉。
東洋興行が当時経営する三つの劇場からは、浅草ロック座が八波むと志と星清子。浅草フランス座がサトウサブローと美樹はる恵、新宿フランス座が阿部昇二と葉山るり子。
八波むと志のその後の脱線トリオから東宝ミュージカルスでの活躍は言うまでもなく、自動車事故による夭逝が惜しまれる。
サトウサブローはテレビで売れることはなかったが、幕内ではその実力を認められたコメディアンで、関敬六によれば渥美清もことあるごとに「サトウさん、どうしているかねえ」と言っていたそうだ。フランス座時代はアクト講座コントが得意で女性陣を舞台に並べて〝初夜の作法〟などをやっていたとか。
阿部昇二は小柄で張り倒される動きの切れ味が売り物だった。戦前の浅草オペラ館から戦後はロック座や新宿・浅草のフランス座で活躍。坂上二郎の師匠としても知られ、一時期は浅井企画に所属してコント55号の番組に良く出ていた。昭和50年代半ばから深見千三郎の代わって再び浅草フランス座の舞台に。僕は小学生時代に阿部昇二にファンレターを出してご返事をいただいている。

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【西条昇の軽演劇史研究】森繁久彌のロッパ一座の役者から満州のアナウンサーへの転身を報じた昭和14年の新聞記事 [軽演劇]

2021-09-26T11:35:59.jpg古川ロッパ一座にいた森繁久彌(当時の芸名は藤川一彦)が日本放送協会のアナウンサー試験を受けて合格し、満州電々会社アナウンサーとして新京に赴任したことを顔写真入りで報じた昭和14年4月の読売新聞の記事。
〈役者からアナに ロッパ一座の藤川が初の登場〉。
赴任先では満州巡業に来た古今亭志ん生と遭遇。志ん生の自伝には、森繁が宴席の余興として披露した芸を見て東京の寄席に出ることを勧めたと書かれている。

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【西条昇のドリフターズ研究】いかりや長介や加藤茶が加入前のドリフの紹介記事 [お笑い]

2021-09-24T10:50:15.jpgいかりや長介や加藤茶が加入前の「桜井テルヲ(輝夫)とドリフターズ」の紹介記事〈ジャズ喫茶の英雄〉(スポーツ毎夕新聞 昭和36年11月)。
写真右から小野ヤスシ、桜井テルヲ、ポン青木。
〈このバンドはコミカルなことは定評があり、〝クレージイ・キャッツ〟のロカビリー版をネラっている〉

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〝スラップスティックの天才〟正司敏江さんのご冥福をお祈りいたします [お笑い]

2021-09-20T11:50:27.jpg2021-09-20T11:50:27.jpg〝どつき漫才〟の敏江・玲児で一世を風靡した正司敏江さんが今月18日に80歳で亡くなられたとのこと。
お二人のどつき漫才が全国的に注目されはじめたのは1970年のことで、その年のNHK紅白歌合戦にも応援出演を果たしている。
その時、1964年生まれの僕は6歳だったが、「大正テレビ寄席」や紅白などで画面から飛び出すのではないかと思うほど暴れまくる二人の姿は鮮明に覚えている。
今から30年ほど前に、「てなもんや三度笠」を演出された澤田隆治さんから同番組をベータのビデオテープに落とした物を借りて観てみると、その中に澤田さんが降板した後の「てなもんや一本槍」か「てなもんや二刀流」かに敏江・玲児のゲスト出演した回が混ざって録画されていた。まさしく、どつき漫才として絶頂期にあった二人の掛け合いの面白さが記録されており、6歳の頃を思い出して二人の場面を何遍も巻き戻して観たものだった。
玲児さんが敏江さんの後頭部や額を後ろから前からパン!パン!と良い音をさせてひっぱたく。敏江さんはその寸前に丁度良い位置に頭を持っていっており、叩かれた後の表情もまた絶妙と言えた。
そのうちに相手に体当たりするどつき合いに発展し、着物の裾をまくって赤い猿股を見せつつ勢いをつけて玲児さんを突き飛ばした敏江さんが、くるっと踵を返して意気揚々と引き揚げるべく背中を見せると、そこに玲児さんが片足で思い切り跳び蹴りをかます。ズデーンと前のめりにこける敏江さん。
背中に跳び蹴りをかますのは、1967年あたりからコント55号の萩本欽一さんが坂上二郎さんに対して〝机〟のコントなどでやっていたが、男性の玲児さんが女性の敏江さんに対してやってみせるのが画期的かつ衝撃的であり、しかも観ていて全く痛々しさが感じられなかった。
1971年から翌72年にかけてTBSで放送された「時間ですよ」の第2シリーズにも二人は松の湯の近所で理容店を営む夫婦役でレギュラー出演し、毎回、女湯に派手な夫婦喧嘩をしながらなだれ込んでくる場面で見せ場を作っていた。
72年に新番組の降板騒動をきっかけに玲児さんが一時的に松竹芸能から契約解除されると、翌73年あたりから吉本新喜劇の木村進さん間寛平さんのコンビがド迫力のどつき合いで台頭してくる。東京では72年に結成されたマックボンボンという二人組のコントで相手の背中に跳び蹴りをかましたり、片足で相手の頬を蹴り倒していた志村けんさんがコンビ解散後、74年にザ・ドリフターズに正式加入した。
74年に離婚後もそれをネタにしてコンビ活動を続けた敏江・玲児の二人だったが、頭や額へのどつきは継続される一方で、徐々に往年の体当たりからの跳び蹴りのような激しい動きを見せる機会は少なくなっていった。
1990年代に入って、澤田さんの演出、僕の構成で「花王ファミリースペシャル」を制作した際、敏江・玲児さんに〝ぜひ、もう一度、激しめのどつき漫才を〟とリクエストしたことがあった。お二人は「どこまで動けるか分かりませんよ」と言いつつ、体当たりから跳び蹴りのくだりまでを見せてくれたものだ。
玲児さんが亡くなる数年前に、浅草の木馬亭で澤田さんが企画した演芸の会にゲスト出演されたのが、お二人の漫才を生で観た最後の機会になった。
僕にとって、敏江さんはどつき漫才という枠を越えた〝スラップスティック・コメディ〟を演じられる天才の一人であった。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

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【西条昇の浅草軽演劇史コレクション】昭和35年の浅草東洋劇場の第5回公演パンフ [軽演劇]

2021-09-19T15:53:00.jpg2021-09-19T15:53:00.jpg2021-09-19T15:53:00.jpg2021-09-19T15:53:00.jpg2021-09-19T15:53:00.jpg昭和35年2月の浅草東洋劇場の第5回公演パンフ。
池信一、石田暎二、東八郎らの劇団「あさくさ新喜劇」と女優劇「つぼみ座」の合同公演という形で、パンフには出演者の名鑑もそれぞれの当時の自宅住所と共に掲載されている。
表紙の写真左から二人めが炎加世子だ。凄い目力だね。彼女は当時松竹の大島渚監督に見いだされ、主演映画「太陽の墓場」が公開されたのは、この公演からわずか半年後の同年8月のことだった。

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【西条昇の浅草軽演劇史コレクション】浅草東洋劇場と浅草フランス座の開場記念パンフより [軽演劇]

2021-09-18T14:04:44.jpg2021-09-18T14:04:44.jpg2021-09-18T14:04:44.jpg2021-09-18T14:04:44.jpg昭和34年の浅草東洋劇場(現・浅草演芸ホール)と浅草フランス座(現・東洋館)の開場記念パンフレット。
それまで一~三階にあったストリップのフランス座を四・五階に移し、一~三階に軽演劇がメインの東洋劇場を開場した時の物だ。
翌35年になって高校を卒業したばかりの萩本欽一が東洋劇場の研究生となり、その後、安藤ロールと名乗っていた坂上二郎がフランス座に入っている。
東洋劇場の場内平面図を見ると、ステージ中央が廻り舞台になっていたのが分かる。
旧・フランス座の進行係だった井上ひさしによれば、大道具主任で芸事に関して目利きと言われた〝トンカチの親方〟という人物が居たとのことだが、ステージ上手側の大道具控室というのが親方が将棋を指しながら茶を啜っていた場所だろうか。
新しいフランス座は、東洋劇場に比べてステージが狭いかわりに、客席中央まで〝出べそ〟と言われる花道が作られていた。

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【西条昇の浅草レヴュー史コレクション】「カジノ・フォーリー」第81回公演パンフ [軽演劇]

2021-09-17T11:58:18.jpg2021-09-17T11:58:18.jpg浅草水族館「カジノ・フォーリー」第81回公演パンフ。
表紙イラストもモダンで洒落てるが、記事内のイラストとそこに添えられた姫と騎士の会話も当時のカジノらしくて好きだなあ。
騎士「姫よ、何処へ渡らせられる?」
姫「わらは、これよりカジノへ」
騎士「カジノへ? あのエロのカジノへ?」
姫「はて、春ぢゃもの…」
騎士「うふッ! げに。…拙者もお供仕る」

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