【西条昇の浅草レヴュー史コレクション】昭和7年のオペラ館のピエル・ブリヤント公演のパンフ
手元にある、浅草オペラ館での昭和7年(1932)4月の「ピエル・ブリヤント」公演のプログラムNo.12。
ピエル・ブリヤントは、昭和6年11月に浅草・玉木座の「プペ・ダンサント」を脱退した榎本健一と二村定一を二人座長として、木内興行の手により、浅草劇場から元の劇場名に戻したオペラ館で同年12月に旗揚げされた。
エノケンの師匠の柳田貞一や文芸部のサトウハチローや菊田一夫はエノケンらと行動を共にせず、玉木座に残っている。
のちにエノケンのレヴュー喜劇に欠かせない作家となる菊谷榮は、玉木座に引き続き、舞台装置家として参加しており、文芸部の佐藤文雄の名を借りてレヴュー台本を書き始めていく。
主な座員は、エノケン夫人の花島喜世子のほか、中村是好、如月寛多、土屋伍一、鈴木桂介ら。
昭和7年7月にピエル・ブリヤントは劇団ごと松竹に引き抜かれてオペラ館を去り、常盤座や松竹座に進出。オペラ館には、半年ちょっとしか居なかったことになる。
エノケンらに去られたオペラ館側は、すぐに玉木座から柳田貞一、サトウ・ロクロー、大石信夫、佐藤久雄、高清子らと文芸部のサトウハチローや菊田一夫らを引き抜き、レヴュー劇団「ヤパン・モカル」を旗揚げさせている。
ピエル・ブリヤントは、昭和6年11月に浅草・玉木座の「プペ・ダンサント」を脱退した榎本健一と二村定一を二人座長として、木内興行の手により、浅草劇場から元の劇場名に戻したオペラ館で同年12月に旗揚げされた。
エノケンの師匠の柳田貞一や文芸部のサトウハチローや菊田一夫はエノケンらと行動を共にせず、玉木座に残っている。
のちにエノケンのレヴュー喜劇に欠かせない作家となる菊谷榮は、玉木座に引き続き、舞台装置家として参加しており、文芸部の佐藤文雄の名を借りてレヴュー台本を書き始めていく。
主な座員は、エノケン夫人の花島喜世子のほか、中村是好、如月寛多、土屋伍一、鈴木桂介ら。
昭和7年7月にピエル・ブリヤントは劇団ごと松竹に引き抜かれてオペラ館を去り、常盤座や松竹座に進出。オペラ館には、半年ちょっとしか居なかったことになる。
エノケンらに去られたオペラ館側は、すぐに玉木座から柳田貞一、サトウ・ロクロー、大石信夫、佐藤久雄、高清子らと文芸部のサトウハチローや菊田一夫らを引き抜き、レヴュー劇団「ヤパン・モカル」を旗揚げさせている。