【西条昇のストリップ史コレクション】「藝能画報」のジプシー・ローズと正邦乙彦の近況紹介ページ [ストリップ]
手元にある、「藝能画報」(国際写真通信社)の昭和28年(1953)12月号での〈団欒〉と題したジプシー・ローズ(本名・志水敏子)とその育ての親でプロデューサーの正邦乙彦の近況を伝えるグラビアページ。
正邦は戦前はエノケン一座や森川信の新青年座の俳優として活躍し、戦後は昭和23年春に浅草・常盤座でヘレン瀧らのストリップショウ(正邦が命名)を演出。昭和25年の常盤座で志水敏子(のちのジプシー・ローズ)と出会い、以降はジプシーのプロデューサー兼マネージャーに。
昭和28年1月に開場した松竹の東劇バーレスク・ルームのスターとして活躍したジプシーだが、翌年1月にバーレスク・ルームが閉館。
この取材の頃にはすでに閉館が決まっていたのではないか。
〈今は師弟共同生活とか…〉とあるが、正邦にはエノケン一座で出会った高清子という女優の妻が居ながら、ジプシーが昭和42年4月に世を去るまで、ずっと生活を共にすることになる。
正邦は戦前はエノケン一座や森川信の新青年座の俳優として活躍し、戦後は昭和23年春に浅草・常盤座でヘレン瀧らのストリップショウ(正邦が命名)を演出。昭和25年の常盤座で志水敏子(のちのジプシー・ローズ)と出会い、以降はジプシーのプロデューサー兼マネージャーに。
昭和28年1月に開場した松竹の東劇バーレスク・ルームのスターとして活躍したジプシーだが、翌年1月にバーレスク・ルームが閉館。
この取材の頃にはすでに閉館が決まっていたのではないか。
〈今は師弟共同生活とか…〉とあるが、正邦にはエノケン一座で出会った高清子という女優の妻が居ながら、ジプシーが昭和42年4月に世を去るまで、ずっと生活を共にすることになる。
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