【西条昇の浅草の永井荷風研究】荷風の小説「裸體」を劇化上演した際の新聞広告 [永井荷風]
昭和25年2月に浅草ロック座で永井荷風・原作「裸體」(脚色演出・仲澤清太郎)が上演された際の新聞広告。
前年に浅草・大都劇場の劇団「美貌」のために「停電の夜の出来事」と「春情鳩の街」の二本の戯曲を書き下ろしていた荷風をロック座にも来てもらうために、当時、ロック座の座長格の伴淳三郎が荷風の小説「裸體」の舞台化を企画したとのこと。
荷風は昭和23年の春に約4年ぶりに浅草を訪れ、ロック座に通っていたが、その後、桜むつ子の居た常盤座や高杉由美の居た大都劇場の方に通うことが多くなっていた。
この頃はすでに大都劇場での実演が無くなっており、バンジュンの思惑通り、荷風はロック座の楽屋を訪れるようになり、この年の5月にはロック座のために戯曲「渡り鳥いつ帰る」を書き下ろしている。
しかし、当のバンジュンは荷風と入れ替わりでロック座を去り、映画界に進出していくのであった。
前年に浅草・大都劇場の劇団「美貌」のために「停電の夜の出来事」と「春情鳩の街」の二本の戯曲を書き下ろしていた荷風をロック座にも来てもらうために、当時、ロック座の座長格の伴淳三郎が荷風の小説「裸體」の舞台化を企画したとのこと。
荷風は昭和23年の春に約4年ぶりに浅草を訪れ、ロック座に通っていたが、その後、桜むつ子の居た常盤座や高杉由美の居た大都劇場の方に通うことが多くなっていた。
この頃はすでに大都劇場での実演が無くなっており、バンジュンの思惑通り、荷風はロック座の楽屋を訪れるようになり、この年の5月にはロック座のために戯曲「渡り鳥いつ帰る」を書き下ろしている。
しかし、当のバンジュンは荷風と入れ替わりでロック座を去り、映画界に進出していくのであった。
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