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【西条昇の往年の浅草写真と同じ場所の現在をほぼ同じ角度から撮ってみたシリーズ2】観音裏の宮戸座の絵葉書と現在の宮戸座跡 [浅草六区]

明治43年(1910)8月の大洪水の際の浅草観音裏の宮戸座の前の絵葉書と、平成28年(2016)元旦の宮戸座跡の前。
そば処の「弁天」の斜め向かいにあり、現在は料亭「婦志多」になっている。
宮戸座は、もともと明治20年(1887)に「吾妻座」として開場し、明治29年(1896)に「宮戸座」と改称。
ここの舞台では、「田圃の太夫」こと沢村源之助、花道を三歩半で駆け抜けたという「猛優」沢村訥子、九世團十郎にソックリで「二銭団洲」と言われた坂東又三郎の他、中村芝鶴、中村勘五郎、尾上菊四郎、浅尾工左衛門、市川鬼丸といった役者たちが活躍した。
当時の歌舞伎の劇場の格から「緞帳芝居」「小芝居」などと言われたが、浅草っ子をはじめとする下町の庶民から愛された小屋である。
永井荷風は「すみだ川」に宮戸座での場面を描いているのに加え、「大窪だより」では大正3年の源之助・芝鶴・勘五郎・工左衛門らの宮戸座の夜芝居について〈当夜はこの狂言と云ひこの芸と云ひまた質素なる此土地の見物と云ひ場内のさますべて帝劇歌舞伎市村などとは全く異りて桟敷の居心地よろしく候間久振にて初めて日本在来の芝居と云ふもの見物いたせしやうなる心地致し候〉と絶賛している。帝劇、歌舞伎座、市村座という当時の大劇場よりも宮戸座を気に入っているところが、いかにも荷風らしい。
吉井勇には「宮戸座の看板の前にたたずめる昔の我を見るよしもがな」という歌があり、久保田万太郎も正岡容も沢村貞子も宮戸座について書き残している。
レヴューや映画の人気に圧される形で廃座となったのは昭和12年(1937)のことであった。
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